明治維新がおこる20年前の1848年、アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」が発刊された、この頃のヨーロッパでは、すでにマッチが日常的に使用されていた事がうかがえるが、日本では明治2年(1869)、金沢藩の「清水誠」がヨーロッパに渡り、マッチの製造技術を学び帰国、明治8年(1875)4月、東京三田四国町にてマッチの製造会社『新燧社(しんすいしゃ)』をおこしたのが始まりである。
この頃の国内は維新直後で、士族救済が叫ばれていた時期でもあり、明治政府は各地に「失業士族救済のための士族授産事業」としてマッチ工場を設立した。
姫路にも「就光社(しゅうこうしゃ)」が設立されたが、明治10年〜20年に起こった経済恐慌に「武家の商法」は持ちこたえる事が出来なかった。そのため職員がそれぞれ「独立」をして会社をおこしたのが、この地区の「マッチ産業」の始まりである。
またその後、地場産業として発展した理由として、下記の事柄が挙げられる。
この頃の「マッチ」は「お茶」「紡績」と並び、輸出産業となり、近代日本の発展に大きく貢献した。現在も国内だけでなく、ヨーロッパ、アメリカを始めとする海外に多く輸出されおり、またこの播磨地区で国内の約90%を生産している。