日本マッチ産業の創始者 清水 誠 3

 この当時の清水誠の情熱と行動は、以前フジテレビの「なるほど ザ ワールド」で取り上げられた事があった。明治時代に遠く離れたヨーロッパで、近代日本を築くために、いかに苦労をし、情熱を燃やしたかと言う事が紹介され、多くの人々に感動をあたえた。

 この視察旅行中に「新すい社」は全焼した。しかし、明治12年(1879)4月に帰国した清水誠は工場を再建、製造法を革新し、上海や香港へ社員を派遣して輸出に力を入れた。新しく製造を始めたマッチの種類は明らかではないが、「新・新すい社」はスウェーデンの知見を生かし、「安全マッチ」の生産も始めたものと思われる。

 この頃、国際的な為替事情もあり、新すい社の業績が極めて好調であることを知った企業家たちは、相次いでマッチ工場を始めた。失業者の救済を目的とする者、営利を最優先する者が交錯し、不徳義にも新すい社の職工を引き抜き、また、製法を盗み出したりする者も少なくなかった。しかし、清水誠は志を同じくし、礼を尽くして教えを請う者に対しては、利害を超えて原料や機械・器具に至るまで調達し、製造方法を懇切に教授した。また、神戸や北海道監獄署など公の施設からの求めにも喜んで応じた。

 明治8年(1875)にマッチの生産が開始されてから順調に生産量を増やして行ったが、当時の貿易は華僑の手に握られ、マッチもその例外ではなかった。明治12年(1879)の夏、清水誠は輸入マッチの販売店(洋品業者)に呼びかけて「開興商社」という組合を設立し、輸入マッチを排除して国産品を販売するように働きかけた。その結果、明治13年(1880)夏には、マッチの輸入は皆無になった。そのうえ、清国市場では世界先進国製マッチと対抗して、競争の端緒を開き、長年にわたる海外市場の争奪戦開始の第一年となった。

 明治16年(1883)、全国各地に興ったマッチ工場は、競って輸出に力を入れたが、中には粗製乱造の果てに、発火しない製品も混じり、日本製品の名声を落とし、輸出量が極端に減り、閉鎖するマッチ工場が続出した。このような弊害をなくすため、明治20年(1887)兵庫県燐寸製造組合が設立された。

 一方、創設以来、堅実な経営を続けていた新すい社であったが、輸出の激減は多大な損失をこうむった。清水誠は国士型の人物で、必ずしも商業的才覚に長けていたとは言えないが、この困難に耐え操業を続けていた。しかし、明治21年(1888)12月についに破産し、新すい社の解散を余儀なくさせて東京を撤退、故郷の金沢へ帰った。

 その後、明治27年(1894)に兵庫県の尼崎で「旭すい社」という名前のマッチ工場を立ち上げようとしたが、資金難のため実現には至らなかったようである。しかし、その間にも自ら「擦付木軸配列機」の開発に務め、明治29年(1896)と30年に相次いで特許を得ている。

 それから間もなく、明治32年(1899)1月、急性肺炎で大坂病院に入院、同年2月8日死去した。享年54歳であった。墓は金沢市野町3丁目の玉泉寺に建てられた。