それから数ヶ月も経たないうちに、多くの利益を上げ、事業がおおいに振興した。その結果、明治11年(1878)9月に上海に向けて「新すい社」のマッチが輸出され、好評を博した。これが日本初の輸出で、金額は2万4千円であった。
これと同時に、清水誠がマッチの製法を広く公開し、積極的な普及活動を行った結果、各地に「失業士族救済のための士族授産事業」として、マッチ工場が設立された。国益としての「マッチ輸出」が、国策としての「士族授産事業」を支え、さまざまな問題を抱えながらも、日本のマッチは産業として、ようやく出発点に立ったと言える。
しかし、「士族授産事業としてのマッチ産業」は、将来に期待をかけられての発足であったが、明治10年代〜20年代にかけて起こった経済恐慌に「武家の商法」は持ちこたえる事ができず、つぎつぎと破綻し、結局は民間にまかせる事となった。
同じ年の明治11年(1878)、政府より製糖業(造船所勤務時代に製糖について研究した事があった)の研究ため、ヨーロッパに再び派遣された。フランスに着くと現地に就任していた勧業局の「松方正義」は、清水誠の本来の任務(製糖業)を免じたうえ、多岐にわたらず益々マッチ業に専念するよう懇切な指導をしたので、フランス、ドイツ、スウェーデンを巡回して、マッチについての調査をした。
清水誠は特にスウェーデンのヨンコピング社の視察を熱望していた。前にも述べたが、「安全マッチ」はこの会社によって発明されたもので、その実状を知らずに競争しても、まったく勝ち目がないと考えていたからである。当時、安全マッチの製造方法は「極秘」であったため、視察などは絶対に許されなかった。
フランスに着いた時から、あらゆる手段を講じたが果たせず、数ヶ月が経ったころ、ヨンコピング社はストックホルム銀行の資金を得、さらにその銀行は、フランス銀行の恩恵を受けている事を知り、手続きを踏んでストックホルム銀行の頭取からヨンコピング社の社長宛の親書を手に入れる事ができた。
しかし、それでも警戒して訪問を許さないので、産業一般の視察員であるように見せかけ、マッチとは関係のない諸工業を多数視察し、その都度、地元の新聞に動静を掲載させつつ、満を持した。厳冬のある日、降りしきる雪の中を汽車でヨンコピング社へ向かおうとした時、車中に乗り合わせた人が「たとえ、いかなる手続きをしても、厳格なことで有名な会社だから、引き返した方が得策だ。」と忠告してくれたが、それをおして会社を訪問し、親書を示して視察を願った。
幸い、予想したような謝絶はされず、社長自らが走るようにして案内した。そこには「奇法珍機」があったが、たちどまるとすぐに制止させられて熟視を阻んだ。スウェーデン人通訳は弁解につとめ、ようやく1時間足らずの見学を終えることができた。当時、この会社は安全マッチ日産100トン(1トンは小箱7200個)以上を生産しており、世界一を誇っていた。清水誠は短時間ながらいろいろな要点を把握でき、たしかな勝算を得た。